現実逃避は常に無意識下で行われていて、それに関して自分と云う人間はどこまでも素直で正直だった。

窓から外を見る。ぼんやりと雨が降りそうだ、と宮城は思った。
空が雲に覆われて暗い。高い空が見えないと云うのは蓋がされているみたいで酷く息苦しく、圧迫されているような感覚に思考すら閉鎖的にしてしまう。
虚んだ気持ちを少しでも紛らわそうと、握ったシャーペンを手持ちぶさたに指先で回してみるが、陰鬱とした気持ちはどこまでもまとわりついて離れてはくれない。

そんな気持ちを抱えたまま視線を手元に移す。

まだ半分も記入されていない机上のプリントは、担当の先生の都合で急に自習に変わった英語の課題。
何かの模様のように規則正しく並んだアルファベットを宮城は目で追う。
辞書を片手に単語を2、3個調べてみたが、うだるような初夏独特の暑さと雨の匂いを孕んだ湿気がやる気を根こそぎ奪い去ってしまった。
そもそもこのアルファベットを言語として認識しろと云うのに無理があると思う訳で。
違う国の言葉は酷く遠くて、きっと関わることの無い世界。遠い世界。

そもそも世界、とはどこを指すのだろうか。
世界の範囲とはどこからどこまで指し、何処が始まりで何処が終わりなのか。
境界線は?基準はどこだ?
世界の定義は?世界は1つか?




くだらない、と宮城は思った。

世界なんて物は、言葉は、単語は、形が無くて、目には見えない。実態がない。実体もない。
だから底がない。定義なんてあり得ない。
ただ主観・客観と云う意味で、曖昧な世界の中心はいつでも自分だった。
(自分本意いつでも自分ありき)

この広い世界の一部を切り取るように、身の回りの限られた環境と限られた人と限られた物だけを囲い、自分が中心の自分の為の小さな世界を生み出す。
きっとそれは例外無く、誰も彼も。自分の為の世界を創る。
そうして全ての人が生み出した小さな世界を、くっつけて一つにしたモノが世界なのかもしれない
(じゃあ人が足を踏み入れない土地は世界の枠を外れてどこに行く?)

(やっぱりくだらない)

(見えないものなんて信じる気にもならない。)

宮城はうつ伏せになって眼を綴じる。
寝てしまおうと思った。
瞳にも思考にも世界にもこの空のように蓋をして、深い夢を見る。

枕代わりに重ねた腕の下で、グシャリと潰れたプリントだけが現実だった。













帰りのホームルームが終われば、体育館に向かう。
これは習慣であり義務であり宮城にとって必至で必定で不可避。
それは小さな自分の世界の中の常識。

故に毎日それの繰り返し。
それが皆に平等に普遍なものだなんて思わないけれど、バスケ部に復帰後2ヶ月で宮城の中では抗えぬほど普遍なものになっていた。



曇り空を見上げる。
体育館に繋がる渡り廊下を歩む足取りは確かだか、宮城の意識は遠く、どこまでも空っぽでスカスカ。
(それでなくても世界は広く空っぽなのに!)
(あぁもうこんな世界なんて。)


不意に名前を呼ばれた。

いや、正しくは呼ばれてなどいない。声の主からしたら小さな声で呟いた…と云うより、口から漏れてしまったと云うのが正しいだろう。

振り返った瞬間、困惑を抱えた揺れる瞳と視線が絡まってしまって、誘われるように動揺した宮城の脚はピタリと動きを止めてしまう。
ほぼ同時にそこに立っている184センチの男の脚も止まっていた。




「…何してんの?」
「部活…行くんだよ。当たり前ぇだろ」
当たり前。それは宮城の世界で当たり前なのと同じように、三井の世界でもそれが常識なのだ。

「なぁ宮城」

三井がもう一度名前を口にする。今度はハッキリと聞こえる声で。
でもその語尾が微かに震えて上擦った事に気付いてしまって、宮城の胸がドキリと鳴る。

「昨日のことなんだけど…」と言った三井に、やっぱり…と宮城は思ったけれど、そう思った事を悟られる訳には行かないと思った。
(別に悟られたとこで何かある訳じゃないが、その事を気にしていた自分を悟られたく無かった)

「昨日って?」
「しらばっくれんな、昨日部活帰りに言っただろ。夢だとでも思ってたかよ」

「…夢だなんて思ってねぇすよ」
夢ならいいのに、とは思ったけれど。
そんな事を口にしたら怒るだろうか、と考えて怒ってくれた方がマシだと思った。
それくらい張り詰めた空気を三井は抱えている。



なぁ…と云う名詞を持たない呼び掛けはどこまでも弱々しくて、重くて。堅くて硬くて固くて難いと思った。
昨日のあの瞬間まで、誰と居るよりもこの人と一緒に居ることが気楽で楽しいと思っていたはずなのに
(きっと、恐らく俺の思い込みで無ければ三井サンもそう感じていたはずだ)


それを壊したのは昨日別れ際に三井が発した言葉。
たった一言、たった三文字の言葉が一瞬にして瞬間的に奪ったのは、宮城の言語理解力と冷静な判断力、今まで作り上げて来た二人の関係、友情。
そしてもたらしたのは沈黙とバラバラに破壊された二人の関係。
そして目の前に横たわるように普遍にして不変的な世界(常識、性別、価値観)はどこまでも三井の発言を拒絶し、嘲笑っていた。


突然の世界の豹変に、判断力を欠いた宮城は、伝えられた言葉に込められた想い考えるより、ただどうして、と思った。
どうしてこの人はわざわざこの言葉を自分に伝えたのか。

宮城にとって三井との関係の始まりは最悪だった。
第一印象も最悪だった。次会った時も最悪だった。
入院し戻って来て、やっぱり最悪だった。
最悪で最低で、でも今ではそれなりに気にいっているこの関係を、三井は簡単に投げ出した。
(三井にしたらそれは簡単ではなかったが宮城にはそれを察することは出来ない)

宮城だって、三井よりはずっと小さくて形は違うけれど微かに抱えていた想いも、思いもある。
その想いを一方的に壊した三井は、あの日(正確には20時間と38分前。即ち昨日)
想いを告げるだけ告げて言い訳も弁解もせず逃げ出した。
宮城の返事も文句も思いも想いも知らずにただ逃げたのだ。


しかし結果としてはこうして、二人の世界はどこまでも交わり続ける。
逃げ出せはしない。
三井だってそんなことは解っていたはずだ。

同じ学校で同じ部活で当たり前のように互いに互いを互いの世界に組み込んで来たのだから。
だから今、20時間と38分が経過した今になってまたこうして顔を合わせて会話をしている。




三井は宮城の方をチラリとも見はしない。
宮城はそんな三井を見る。

その刺すような視線を肌で感じながら、三井は逃げ出したい気持ちを抑え込んで捲し立てるように言った。

「別に返事が欲しいとか、付き合って欲しいとかそういうンじゃねぇんだ」
ただ知って欲しかった。
口にしたかった。吐き出したかった。

そう言う、三井の世界はそうしなければならない程緊迫していたのだろう、と宮城は思った。
だから宮城はそれを受け止めた。

(でも受け入れられない。応える事はできない。)

(俺は、俺の世界はそんなに広くない。)





「悪ぃな…」
そう言って、動けない宮城の脇をすり抜けて渡り廊下を渡り切った三井の、すれ違い様見えた表情は、この曇天の空みたい暗くて圧迫するように、重くて。
堅くて硬くて固くて難くて苦しい。

宮城の胸にズキリと走った痛みは罪悪感なのか自分を庇護しようとするエゴなのか解らない。
衝動的に三井を追いかけて呼び止めようかと思ったけれど一歩踏み出したところでやめた。

(呼び止めてどうしようと云うのか)

(俺はどうしたいんだろうか)


ただ宮城の持つたった一つの世界は酷く狭くて、脆くて。
その境界線は曖昧で戸惑うほど不透明だった。




不意に暗い空を見上げる。
ポツリと落ちた水滴がコンクリートを部分的に黒に染めた。


ブチ模様に染まる地面と、申し訳なく泣き出した空を見上げながら宮城は、傘を持たずに来た事を思い出して、小さくどうしようと呟いた。





『World is…』


(幾度となく交わる世界をもし運命と呼ぶならば、この人を運命の相手だとでも思えばいいのでしょうか?)

(…なんて、それこそくだらない)










END
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実体のない物の軸がぶれるのは容易い。


20091211

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